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■Life with Music
◆Peter Hammill / Van der Graaf Generator との出会い 1971 - 2001年◆
Peter Hammill と彼が参加していたバンド Van der Graaf Generator の音楽に最初に触れてから実際にPeter の日本公演を実現させるまでの約30年間について記憶を辿ってみたい。
1971 - 2001年
1971年ウイーンから東京に戻った時、当時の大勢の若者同様、私は髪を肩まで伸ばし、毎日のようにピアノやギターを弾く音楽人間になっていた。インターナショナル・スクールでは自作の曲と歌(といってもメロディーのみ)を披露したり、他の音楽仲間とバンドを組んでパーティーなどで演奏(Cream, The Band, Johnny Winter, Jimi Hendrix 他)したり、ジャムセッション(Emerson, Lake & Palmer, John Lennon 風)をしたりと、音楽を気軽に楽しんでいた。その時すでに King Crimson の洗礼を受け、Jethro Tull の驚愕ライブを見、Rolling Stones の巨大コンサートを経験していたので、今から思えば恵まれた音楽環境であった。ヴェトナム戦争真っ只中だったが、Beatles は1970 年に解散し、音楽の時代は確実に次のフェーズに入っていた。
イギリスのバンド Van der Graaf Generator は当時すでに一定のファンをつかみ、ヨーロッパ各地で公演を行っていた。Charisma レーベルの仲間であるGenesis やLindisfarne との共同ツアーなども組まれ、中堅どころとして活躍していた。ウイーンで購読していた音楽紙に公演の記事が出ていたのを覚えている。但し、LPの流通が十分でなかったせいか、結局ウィーンでは一回もレコードを聞いていない。私が最初に聞いたのは東京に戻ってしばらくたった、多分 1971年終わり頃だろう。御茶ノ水の Disk Unionで購入した "H to He Who am the Only One" を聞いた時は、特徴あるオルガンとエフェクトを駆使したサックスの重層的なサウンドが変拍子のリズムにまたがっている上に、とてつもなく伸びのあるヴォーカルが時に艶やかに、時に暗黒的に響く、魅力的なバンドだと思った。ピアノで作曲し、詩をつけて歌っていた私にとって、とてもインパクトのある声であった。Peter Hammill はここで登場する。
70年代、80 年代にわたり、Van der Graaf Generator とソロとなったPeter Hammill はずっと私の注意を引くミュージシャンであり続けた。特に Peter Hammill はHammill スタイルともいうべき独特の作曲、歌唱、演奏スタイルを確立していった。1975 年にヴェトナム戦争がアメリカの敗戦という形で終わり、若者のマントラであった「反戦」もトーンダウンしていった時代の空気は、サイケも反体制も「風変わりな音楽」もすべて飲み込むが如き勢いをもって、パンクを生み出した。特にイギリスではパンクはライフスタイルとして現れ、音楽も一時「パンクし」てしまった、と私は思う。このパンクの波は荒く、70年代には多くの有名なバンドが解散し、またまた時代は移っていく。ただ、例外的にPeter Hammill は流されることなく、孤高の、大げさに言えば特別の気高さをもって別の次元から世の中を見ていた。30年以上にわたるソロ活動は時代に決して流されない Hammill の信念に支えられている。
私といえば、1978年に大学を卒業し会社に就職はしたが、1973 年より本格化していたバンド活動は衰えるどころかますます盛んとなり、ミュージシャンを目指して日々練習に励むといった生活が続いていた。17:30 に退社するやいなや、家に戻り(或いは戻らず)、食事をすませると(或いはとらず)19:00くらいまでにはバンドの練習が始まっていた。夜だけでなく、週末、祝日もスタジオでのバンド練習やら音楽関係の打ち合わせ、つき合いがあり、会社員生活との両立は大変だった。サーフィン、テニス、スキーと時代を追って次々と変わる「はやり」のスポーツとか、休暇で旅行という生活からは遠く、修行僧とはいかないまでも相当の”discipline” (King Crimson ファンには馴染みの言葉) が必要だった。もともと体育会系からは最も離れた位置に陣取っていたはずだが、継続、忍耐、練習、研鑽、友情、切磋琢磨などといった言葉とは無縁でいられなかった。もちろん、創造、独自、演出、表現、突出、展開無限という音楽の作り手としての必須項目はそれまでに学習していたつもりだが。
80年代はHammill を初めてライブで目にした時でもあった。その衝撃は彼をライブで見た者しかわからない。1986年渋谷の完全ソロ・ライブは圧倒的であった。音や演奏テクニック、演出などによる「要素」によって、或いは、その総合によって素晴らしさが決まるというような単純な評価ができない。敢えて言葉にすれば、「Peter Hammill という人間そのもの」によって自分の魂が揺さぶられるのを実感するとでも言えようか。彼の声、歌唱力はもの凄く、それだけでも十分感動するが、ライブでは彼の存在そのものが聞くものに「音楽の本質」を語り出すように感じられる。その段階に至ると、実際ミストーンがあろうが、演奏が途中で止まろうが、そういうことはまったく些細なこととなる。確かに「音楽」を聞いているのだが、伝わってくるのは「人間にとって音楽とは何か」についての答えなのだ。そのようなライブ経験を Hammill 以外に私は知らない。
1991年、赴任先のオランダから帰国するとすぐに、ベルリンでの事業に取り組むことになる。これは私の仕事上のキャリアとして大きなステップとなったが、同時にいろいろな意味でその後の人生の選択肢を与えてくれた。ある晩、Passionskirche という教会で行われた公演で Hammill と出会ったのもその一つだ。私が座った席の左隣の人が話しかけてこなければ Hammill と会わなかったかも知れない。偶然だが、私は Hammill の昔からの友人の隣に座っていたのだった。ベルリン在住の彼女はアーティストで日本や中国に特別関心をもっていたため、公演会場唯一のオリエンタルであった私に興味を持ち、話しかけてきたのだ。彼女は Hammill のソロ・アルバム “The Silent Corner and the Empty Stage”のカバー・アートを描いた人でもあった。公演終了後、彼女の紹介で Hammill に会い、一緒に遅い夕食をとり、初めて人物としての Hammill を知ることになる。少食で快活という印象を持って夜半に別れるが、まさかその時は将来 Hammill の日本公演を企画し、主催者側として彼を迎えるようになるとは夢にも思わなかった。

その後、90年代に一度ドイツの公演会場で会った以外は Peter とは連絡もとらず、また特段に意識することもなく月日は過ぎていった。その間、会社での仕事はベルリンの事業、エンタテインメント事業戦略、エンタテインメント施設事業企画開発、エンタテインメント施設事業と変わっていき、守備範囲が間接部門から一般消費者を対象とした日銭部門へと移っていった。というか、自分でにじり寄っていったと言ってもいいかもしれない。音楽の本質がライブにあるという考えをずっと持っていたためか、他の事象、或いは事業においても、本質を見極めるためにはライブ(現場)、つまり消費の現場を自ら見るべきだという強い思いがあった。東京にエンタテインメント施設を作るということになり、その企画に携わり、実際に事業として運営していくことになった時、自然にその方向に自らの身を処するようにできたのもそのおかげであろう。そして、エンタテインメント施設内にあったライブハウスにおいてPeter Hammill の公演を行うことになる。2000年に企画したこの公演は、Peter に最初に会ってからちょうど10年目の 2001 年に実現した。 (文責 大沢、2003年)