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Real & True Live Series Nik Baerstch + Imre Thomann / Ronin 公演  
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来日前インタヴュー (Nik Baertsch)
 

ニック・ベルチュ〜パラドックスを生きる詩的な「浪人」


****まず、あなたのウェッブ・サイトのトップページがとても印象的です。日本の「俳句」から発生したところの、「月見」(※ドイツ語でも”Mondschau”「モントシャウ」、として一部の人の間では定着しつつある)という言葉を思い浮かべました。「月」にはあなたにとって特別な意味がありますか?

Nik Baertsch(以下;NB); どうもありがとう。ウェッブには妻の撮った写真を載せた。2003年に夫婦で半年間日本に滞在したときに撮った写真で、梅田スカイビルの円形の窓から大阪市街を見下ろしている僕の後姿だ。まん丸い窓を通して、静かな空間からエネルギーと喧騒に満ち満ちた大都市を眺めたとき、何か特別なエネルギーが湧き起こってくるのを感じたんだ。そう、「台風の目」に立っているようなね。なにか相反するようなスリルと緊張感。喧騒のなかの静謐、嵐のなかの静寂、とでも言ったらいいのか・・・。屠殺場でのお茶会、のような。この種の静寂はまた、音楽におけるありとあらゆるドライヴ感を支配するものだ。

「月見」というのも似たような感情を催させる。宇宙的な力へ引き寄せられるのと同時にはたらく意識としての静寂、冷涼、静謐。月がなくては、大地はバランスを失い、軌道から外れてしまう。夜間の月の光があって初めて、こういった感受性が生じる余地が生まれる。『バットマン』とか浪人映画に見られるような、奔放で不可解なヒーローを生んでいる日本映画や物語に、夜とか月がシンボルとして組み入れられているのは面白いね。彼らは不可解でいかがわしいヒーローとして、善のために戦っている。アンビヴァレントでパラドックス的な人物像で、自分にとても近いと感じる。


****チューリッヒのクラブで毎週月曜日に行われているギグ (※チューリッヒのクラブ『EXIL』のこと) も”Montags”(※ドイツ語でMontagは月曜)と名づけられていますが、どうしても「月」を連想させます。「月」の時間は「もののけ」、言ってみれば「悪しき精神の時間」とも取れるわけで、これは浪人の精神のシンボルともなり得る。そういう意味も込めての月曜ライブ、というのは深読みしすぎ?

NB;全く。詩的な「偶然」のひとつだよ。まあ、こういった偶然が極めて論理的なのはよくあることだけれど。先に述べたように、「月」は僕たちにとって特殊な意味を持っていて、そこに日本的な意味を重ねて二重に用いたりはしないよ。月曜日に演奏するのは、定期的に演奏する、という秩序付けに適した曜日だからだ。ほとんどのミュージシャンは月曜日は暇だし、他にコンサートも少ない。会場諸々のコスト面でも安く済む。実際的な面からも、象徴的な面からも僕たちには都合のいい曜日なんだ。月曜日は「浪人の日」となっている。月曜はまた、ふつうに働いている人たちにとっても仕事始めの日というわけで、「そんな日にコンサートに行く奴はいない」という人もいるよ。でも、僕たちにとっては正反対なんだ。週が明けるや否や自由奔放な「浪人スピリット」をかっとばしたくなる。一週のスタートとしてね。「悪しき精神」は時に「善良なる精神」。夜は昼を明るく照らす。


****あなたは個々の演奏を「リチュアル」(儀式)として捉えています。ライブを積み重ねることによって、儀式の濃度や強度が高まってくるのを実感として捉えていらっしゃいますか?

NB;「繰り返し」は高いクオリティに到達するための、非常に重要な原則だ。「繰り返し」によってのみ、人はある事象に関する知覚を研ぎ澄ますことができる。「繰り返し」によって人はまず「差異」と「深く掘り下げること」を知る。この二つはあらゆる「学習」とか「伝統的な熟練の職人仕事」において本質的特徴だ。生成の過程を儀式化することは詩的な戦術のひとつ。それによって、ある文化特有の技法を深く掘り下げたり、そこにしばし停泊する時空に到達することができる。

もちろん、機械的な意味ではなく、「知覚の鍛錬」としての「繰り返し」だけれどね。


****あなたの音楽の最大の特徴は、その「モジュール」という曲の単位にあります。「モジュール」はひとつの構成要素、あるいは断片で、いつの日か有機的な「一体性」へと収斂されるもののように見えます。その「一体性」は時空的にあまりに果てしなく、触知できないものではありますが。そうだとすれば、個々の「モジュール」は、終わりなく拡張していく融解のプロセスを体現している、ということになるのでしょうか?この辺りを少々語ってください。

NB;その通り。ひとつのモジュールは一個の「積み木」だ。作曲といくつかの音楽的な「積み木」が一貫性を生んでドラマティックな意味を創り出したときに、僕はその一片の音楽に番号を付ける。例えばナラティヴ的な、口ずさみながらの作曲とは全く異なる作法だ。個々のモジュールは数え切れないほどの解釈の可能性を持つ。僕は作曲家として、そして僕たちはバンドとして、緊迫性をあえて前面に出し、そこに合理性を付け加えることを強いられている。モジュールには生命が与えられなければならない。モジュールは音楽的な生き物だ。


****あなたの音楽はよく「ミニマル・ファンク」と名付けられています。「ファンク」という語のそもそもの語源は「匂い」に発する、いわば身体感覚に属する語です。我々聴衆にとっては、「ミニマリズム」と「ファンク」という一見たがいにかけ離れた組み合わせがとても新鮮でした。あなたにとっては、それはコインの裏表のように表裏一体の感覚だったのでしょうか?

NB;そうだね。乖離とかパラドックスにとても興味引かれる。だから自分の音楽に「禅ファンク」と名付けたりした。「ファンク」は、とても感覚的でエロティックな音楽スタイルとして定着してきた。そこでは、リズムとグルーヴが主要な役割を担う。でも、自分としては双方のエネルギーを好む。静謐、静寂、瞑想、といったエネルギーと、他方にある、躍動、グルーヴ、興奮といったエネルギーの双方をね。興奮のなかには静寂があるはずだし、静寂のなかには興奮がある。瞑想のなかにはエネルギーがあり、静謐のなかには緊迫がある。内的な静謐なくして、エネルギーに溢れた音楽は演奏し得ない。


****ここでお聞きしたいのが、毎回の「儀式」における精神的な「憑依状態」はどのようなものか、です。日本語には「言霊」という表現があります。あなたの演奏はこの表現を想起させます。この場合は、「言」の代わりに「音」が来ますが。すなわち、音霊。音の魂。音符はそれ自体では単なる点の束であって、シャーマン=ミュージシャンなしでは生きられない、「音」になり得ないわけで・・・。

NB;それは同感。媒体なしに音楽は生じ得ない。音楽は音符のなかにあるのではない。音楽は空気のなかに、スウィングのなかにある。その空気とかスウィングは、音楽を生きたものとする文化全体のことだけれど。音の魂は、演奏というリアルな実践や、確固としたスタイルの解釈を信用することなしには理解され得ない。実践を通して、人はスタイルをさらに発展させることができる。面白いのは、音楽的な表現である「音の魂」が、人間の運動を通して生じるところ。つまり、楽器っていうのは演奏されなきゃ始まらない。ミュージシャンというのは、ダンサーとかプロの運動選手に似ている。彼らは「動きの文化」を絶えず耕して、精密なものにしている。音楽的な表現というのは、運動力学からも、精神の奥底を見つめることからも生じる。


****「シャーマン的な解釈」と「インプロヴィゼーション」の関係、というか兼ね合いは?

NB;インプロヴィゼーションは一種のパラドックス的な文化の戦術だ。人間は果てしない可能性をその身体のうちに秘めているはずなのに、同時にそれを忘れてしまっている。インプロヴィゼーションとは、自分自身をクリエイティブに罠にかけて出し抜くこと。インプロヴィゼーションにおけるシャーマン的な要素とは、自身の直感を要することと、ある文化に特有の技法を意のままにすること。それらは、楽器と音楽の創造的な関係があって初めて、極めて高いレヴェルで可能となるものだ。


****あなたの音楽からしばしば感じ取れるのは、鍵盤楽器の「パーカッション的アプローチ」です。例えば、「モジュール42」の冒頭。単音の繰り返しは、水面に轍を残す水滴、を連想させます。少なくない日本人が似たような印象を受けると思われますが。この「轍」というのはまた、高度に文学的なモチーフで、時間的・空間的な「スパイラル」(※螺旋状)を象徴します。スパイラルは我々を否応なく内向させる・・・。

NB;あなたと同じような感覚を再認識したところ。スパイラルは僕の最も好むモチーフのうちのひとつ。一方で時に先んじながらも、他方ではいつも同じ地点にたどり着く。芸術的な熟練の職人の成長についても同じことが言えると思う。コツコツとした常日頃の仕事と発展は、互いに共鳴しあって成就する。従順ともいえる繰り返しは、知覚受容の幅を広げる。人間というのは、総体としての「水」と「一滴の水滴」としての水、の両方の意識を持ち合わせているはずなんだ。


****楽器のパーカッシヴな演奏スタイルの効果について、常にかなり意識的ですか?

NB;僕たちはメロディーが適用されるように、リズムを適用する。作品のリズミックなエネルギーを指針としているんだ。パーカッシヴ的な音響に、僕はすごく魅了される。儀式の伝統の多くは、パーカッシヴ的な音響と構造を高度に発展させてきた。日本の禅の伝統なんかもね。メロディー楽器をリズム楽器に機能替えすることは、とてもスリリングだよ。”Ronin”というバンド自体が、ひとつの大きなリズム楽器だ。


****マンフレッド・アイヒャー(※ECMレーベルの鬼才プロデューサー)は、かつてあるインタヴューのなかで音楽と映画の分かち難い関係に触れていますが、あなたの音楽も時に「映画音楽」に適しているように思われます。私たちの頭の中に風景を表出させる、という点で・・・。

NB;僕たちは常に音楽の空間的な、演劇的な作用に注意を払っている。要するに、音楽的な空間と風景のために時と場所が確保されているということ。すぐに言葉で語ろうとする衝動に陥ることがないようにね。僕たちの音楽は、時間や風景、想像世界といったものを、脚本をなおざりにすることなく「生じるに任せる」。視覚効果とのコンビはとても良く機能している。音楽が場所を開いてあげているからね。


****他の芸術形態と比較して、音楽だけが持ちうる特殊性とは?

NB;音楽は眼にみえなく、言葉にすることもできない記号や意味システムを用いている。人間は何でもかんでも言葉にしようと躍起になっているけれど。音楽は「口がきけない」からこそ直接的で、まず体に作用する。このスウィング感はとても直裁的で意味の深層に触れる。まず肉体に作用して、だからこそとてもエモーショナル。この「無言」と「感情起伏」のないまぜ状態こそが、音楽をその作用において、他の追随を許さないものとしている。僕は自分が音楽家で良かった、と思えることがよくある。日常的に、語ることも言葉も必要としない覚醒状態、をよく体験するので。日本に初めて行った時、日本語の単語なんてまるっきり判らなかった。だけれども僕は幸福だった。すべてを「無言」状態で見聞きした。こういった「障がい」は、多くのことに対する私の知覚受容を鋭敏にした。


****(「浪人」の精神について) 日本の歴史を見ますと、「浪人」も「サムライ」も近代以前の存在であり社会階級です。この時代、とりわけ戦国時代などは、日本人のメンタリティは今よりもっと「ヨーロッパ的」であったのではないか、と想像します。小さな都市国家に分かれていたようなものですから。そういう社会においては、各々が生きるうえでの美学を持っていた。「浪人」という社会的な状態にも美学があった。浪人の自由な精神とか人を食ったような気性も、多部族(諸藩)社会を生き抜くのに時には有益であったのではないか・・・。残念ながら、私たち現代の日本人はとても「サムライ化」している。日本人、といえば従順な民族と称されますから。

NB;僕は「浪人」を「自由精神」として解釈している。自らの行いの責任を一手に引き受ける、という自由精神。とはいっても、自身を尊重することについてはなおざりにされている場合が多いけれど。この精神は格闘技から来ていると思う。それを僕は合気道のなかに発見して、いつも実践するように努めている。その精神の問いというのはいつも、誰に対して、あるいは何に対して従属するか、なんだけれどね。「浪人」の観念がとてもアンビヴァレントなのも面白いと思う。「盗人」であり「ならず者」である浪人が、時に貴族みたいな「高い倫理性」や「自己責任」と結びつくのだから。人間というのは大抵、両面価値から成り立っている。日本人であろうと、ヨーロッパ人であろうとね。


****日本に滞在されたご経験がおありですが、現代の日本人に浪人精神の残存をみることは?

NB;「浪人」も「サムライ」も、精神性ということでは全世界に在りうる。ある段階を超えたところの日本特有の観念については、僕たちヨーロッパ人には判らない。日本文化のなかで育ったわけではないし、日本語を完全にマスターしたわけでもないのだから。僕は「浪人」の観念を詩的な哲学として、また芸術的な創造性として用いている。


****現在のような世界的経済不況のただなかにあって、「浪人」の自主独立の精神はある種ラディカルに映ります。新たな生き様の提示。ヨーロッパでの聴衆の反応、とりわけあなたの生活の場であるチューリッヒとベルリンではいかがですか?

NB;「自由」で芸術的な生活には明らかに高いリスクが付き纏う。でも、僕はそういう生活がとても好きだ。ライフ・スタイルというのには、どんなものであれ長所と短所があるものだ。全員が全員、自分のライフ・スタイルに満足しているわけではないだろう。僕はただ単に自分の知覚能力を高めたいし、できるだけ多くのことを学びたい。多くのリスクや責任を負うことは、最良の訓練であるように感じる。それによって自分の創造性が試されるから。「リスク」の局面においては、毎日の地味な鍛錬、つまり恒常的なコツコツした仕事、というのがダイレクトに結びつくわけではない。たぶん、自分自身が不安に感じるときにこそ生成する偉大なる芸術、というのが在るんだろうと思う。「新たなる挑戦と日々の継続的な訓練との間の、同一線上におけるバランス」。作曲、解釈、そしてインプロヴィゼーションの三角地帯を自由に移動しながら発展させていくこと、を僕たちは人生で強いられている。「クリエイティブである」とはそういうことだ。


****日本文化の好きな側面を挙げてください。絵画、音楽、文学・・・何でも構いません。

NB;それは難しい。あまりに沢山あるので!僕の日本文化への入り方は多分に直感的だからね。あまり確かなことも言えない。僕が愛するのは日本的な「空虚」の捉え方。思うに、「空虚」の素のままの美しさや緊迫性がこんなにも洗練されている文化は世界に類を見ない。芸術で最も難しいのが、「それをするのに最適な場所で何もしないこと」なんだ。日本の伝統は「シンプルであることの複雑性」を高度に洗練させ、尊重している。この「シンプルさ」は「簡単であること」ではなく、「知的な明快さ」なのだけれど。


****日本人に伝統的な物事への対処法のひとつに、『型に習熟することによって型を破る』というのがあります。どのように思われますか?

NB;芸術において、手仕事的な、すなわちアコースティックな側面に熟達することはとても大事だ。新たな解釈は「熟達」から自然発祥的に生じる。100%ではないが。開拓精神がまさに重要だ。ユーモアも。そして自分自身を計略にかけるときに生じる、クリエイティヴな諧謔精神も。


****日本の聴衆に何かメッセージは?

NB;ひとつお願いがある。感想とか印象を述べて欲しい! 日本の男性や女性がコンサートの後、いかに想像力に溢れた、詩的な感想を述べてくれるかを僕は経験的に知っている。こういった感想はとても僕を揺さぶる。これほど偉大で芸術的・詩的な伝統に育まれ、かつ「質」に対して確かな審美眼をもっている日本で再び演奏できることに、僕達は大きな喜びを感じている。           

■インタヴュー/日・独訳 伏谷佳代 (kayo fushiya)