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Real & True Live Series Nik Baerstch + Imre Thomann / Ronin 公演  
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来日前インタヴュー (Imre Thormann)
 

舞踏家イムレ・トルマンが語る「リアル」とは?


****アーティストとしてのキャリアは「パンク・ミュージシャン」としてスタートされたと聞きますが・・・。日本の舞踏芸術との出会いはどのようなものだったのでしょう?

Imre Thormann(以下;IT); カンフー、合気道、テコンドー、太極拳といった「格闘技」の集中トレーニングを何年も積んだあと、ニュー・ダンスやコンタクト・インプロヴィゼーション(※注;数人で体重の重点をやりとりしながら即興で行うダンス・テクニック。ジャズのセッションとの類似性からしばしば”jam”と称される。代表的なポスト・モダン・ダンスのひとつ)のダンス・ワークショップに通い始めた。そういった2〜3のワークショップをこなした後、森のなかで素っ裸になって自分のために踊る、ということを始めたんだ。何年かたって友人の一人に舞踏の本を見せられたとき、(その本の)写真の中に自分自身を見る思いだった。好奇心を刺激されて、ヨーロッパ中の舞踏ワークショップに通い始めた。


****表現形態として、「パンク」と「舞踏」は互いに相反するようにも見えます。パンクは感情の急激な爆発であるのに対し、舞踏の美学には力の抑制が入る・・・。

IT;パンクでは力の方向が外側に向かうけど、舞踏では内側に向かう。単なる方向性の違いで、そのラディカルさにおいては共通する。それに双方とも「社会的な身体」を拒絶する、というところもね。


****あなたは3つの異なるダンス作法を吸収されましたが。すなわち、アレクサンダー・テクニーク、野口体操、そして大野一雄の舞踏。観客、とりわけ私たち日本人は、それらの要素があなた独自の芸術とどのように融解しているか(あるいはその融解のプロセス)にとても関心をそそられます。このあたりを少々語っていただけますか?

IT;アレクサンダー・テクニークでも野口体操でも舞踏でも、焦点は「何もしないこと」。自然な動きを阻害しないで、起こるに任せるんだ。自然な状態、というのはそれ自体のなかで完結していて、人間が歴史のなかで自身を適応させてきた、動きを阻害する要素(自制作用)を拒絶することが重要だ。

野口とアレクサンダーの言葉によく表れているように。
(※「すべて好ましい調整というものは、分析的・部分的・意識的緊張努力によるものではなく、解放された中で自然的・自動的・反射的に行われるもので、それゆえにこそはじめて最高の自動制御能力が生まれるのである。」野口 三千三
「人間が自分の内で、そして外の世界で起こす失敗は、人間が「する」ことが原因である。この「する」ことを止めることによって初めて本当の改革が可能になる。」F.M. Alexander


****それら3つで共通するのは「内省」と「自然な状態にあることの大切さ」。
それによって、体のひとつひとつのパーツが自由に解き放たれて独立する。これが実現したときの実感というかリアリティは?

IT;長年にわたるトレーニングがリアリティであり、そのリアリティの根拠を絶えず疑うこともまたリアリティ。


****自明のことながら、ダンサーにとっては肉体が内的世界と外的世界ををつなぐ媒体です。野口三千三は「ウジ虫のような半透明性」が肉体の理想的な状態であるとかつて語っていますが。半透明状態は内の世界と外の世界を同時に含みうるものとして。あなたのパフォーマンスはしばしばこの「半透明性」を想起させます。内的世界と外的世界の「継ぎ目なさ」を肉体を使って表現することは、コンテンポラリー・アート全体の大きなテーマになり得るとお考えですか?

IT;たとえば木を見るとき、私は何か外のものを見ているのではなくて自分自身のなかの何かを見ているんだ。何かに対する自分のリアクションをね。それは我々のありとあらゆる感覚でもって行われている。主体と客体の間の境界の消滅。たいていの場合に我々が見ているのは「それは何か」ではなく、「我々は誰か」なんだ。芸術家も一般の人々も、「それは何か」ばかりを見ようとしているようだけれども。

「多孔性」とか「濾過」とかの探求はそういうところから生まれる。


****あなたのウエッブ・サイト上で “Lasztownia 2008”を拝見しました。「空間自体に語らせる」という試みは非常にエキサイティングだと思います。表象されているのは「目に見える身体が消えたあと」の一種の「アフター・ワールド」的世界、でしょうか。すべてのキャストの肉体は、単なる風景の一部として溶け込んでいますから。しかし、演出としては途方もない印象を受けます。すべてが「ロケーション(場所)まかせ」というか。このプロジェクトについて少々語ってください。

IT;今現在、「ロケーション」はインスタレーションの鍵を握っている。ロケーションが「これこれしかじかの場所」を決定するんだ。空間がテーマを確定する。私はそれを導く器官でしかない。人間によって創造され、そして打ち捨てられた空間とはそれ自体の独自の生を生き始める。用途を決められて作られたものが、他のものが生じるために瓦解する。この「他のもの」というのがまさにリアリティであって、それが目に見えたときに人間は自己を新しく見つめ直すことができる。


****他方、“Voyager”(※『ボイジャー』。2005年ベルンにて初演)は、根源的であり急進的である、という両方の意味で非常にラディカルな作品です。そこでのあなたの肉体は、人間の肉体であることを超越してしまった感があります。そこで我々観客が見ているのは、呼吸をしている何やら不明な生命体、に過ぎません。すべての生命のシンボル。肉体は肉体であり、その限りにおいてすべてである! 観客にとって、この新しいリアル感がいかにエキサイティングであるか想像できるでしょうか?パフォーマンスの前半であなたが纏っている白い女性のドレスは、あなたの祖母の象徴ですが、記憶・過去へと我々を連れ去ってしまう。タイトル通り、これは時間と空間を超越するとても素敵な旅であると思います。この作品の着想を得た、特別なきっかけはありますか?

IT;経験の世界は、人間的な現実を無視する。今ここにある肉体というのは、ある瞬間の一瞬の表現にすぎない。絶え間ない変容に基づいているモノ。個々の形体にしがみつくのは無意味であるし、それは喪失とか新しいものへの恐れを意味する。ボイジャーは、20年以上も宇宙の生命体を探り続けている宇宙探査機だ。その内部には写真とか、肉声、映像なんかが膨大に蓄積された金のレコードが備えられている。他方、人間というのは自身の「外部」にインテリジェンスを求めて止まず、そのうえレコード・プレーヤーを別個に所有することを望む。偏狭で物質主義的な人間の思考の象徴だよ。祖母が死んだとき、金のレコード・コレクションは粉々に崩れてしまった。沈澱して無音の世界だけが残った。それでも私の記憶のなかで祖母は生き続けているんだ。

この作品は私から祖母へのオマージュ。そして「過ぎ去った過去と存在の変容」への祝祭だ。


****その”Voyager”では、ニック・ベルチュの音楽も大きな役割を果たしています。ニックの芸術についてどのようにお感じですか?また、あなたの考えるところの肉体の動きと音楽との切っても切れない関係とは?

IT;体のなかのリズム、体を動かすときのリズム、というのは人間にとって生きるのに不可欠な生存環境のようなもの。肉体を取り巻く生活環境のように。ニックも「モジュール」(※ニック・ベルチュ独特の創造の構成単位。すべての楽曲がmoduleと題され、個々のmoduleが相互に補い合う関係。)を使ってそれと同じようなことを音楽で表現しているのではないか。

でも私のダンスは「音楽のリズム」というものにあまり依拠していない。音楽は私にとっては「空間と時間」で、その中で自分は自由に動き回れるというわけ。


****10年以上にわたって日本に居住されていた経験がおありですが。舞踏をはじめ「芸術に表象されている日本」と「現実」の日本、とはかなり距離があるような気がします。現実の日本とのあまりの違いに困惑されたご経験は?俗に言う「リアリティ・ギャップ」に関して面白いエピソードがおありでしたらお聞かせ下さい。

IT;日本人の身体には、まだ太古のアルカイズムが余地として残っている。それが人間性を軽視したかのような工業主義をマントのように覆い隠している。時折、これらの一触即発ともいえる混合状態がガラガラと崩れ落ちて、新しいものが生まれる。例えば舞踏のようなね。


****あなたは不在と実在とのあいだを自由に生き来している振り子、のように見うけられます。「リアル」という感覚は、あなたにとって存在するのでしょうか?

IT;リアルは環境によって絶えず流動する。今日リアルだった何かが、明日はもうリアルではない。


****スイスのベルンから、東京、そしてベルリンと生活の場を移動されていますが、芸術と社会との関係をどのようにお考えですか?いかなる芸術も、多かれ少なかれ、社会的な影響を逃れ得ないのか。或いはその逆も真なり?

IT;芸術はいつも社会との関連において発展する。社会は一時的に芸術を「解釈」の名のもとに置き去りにはするけれどね。我々の思考は過去に基づいているが、芸術は「直観」に基づいている。


****そして今、なぜベルリン?

IT;ドイツ人たちは歴史において、少なくても一回は「最悪のクソッたれ野郎」であったという事実・・・・そして彼らはそれを知っている。日本やアメリカ、その他の国のように自らの過去をいまだに考え直さない国々とは正反対だ。
かつての「クソッたれ野郎」のもとで生活するのはなかなか快適なもんだよ、自分もロクでなしである場合はなおさらね。


****日本独自の感覚受容(例えば、「無常」、「粋」、「儚さ」といった)で、よく身体表現に用いる感覚はありますか?

IT;「あいまい」。この言葉が大好きでとても大事に思っている。ここ西洋では正反対でネガティブな意味合いしか持たないけれどね。西洋ではすべてが明白に、はっきりと表現されなければならない。ところが日本ではあいまいさが重宝される。自分にとっては西洋と東洋をくっきりと分ける差異のシンボルだね。

■インタヴュー/日・独訳  伏谷 佳代(kayo fushiya)